2023-09-27 ピエール・ロティが主題
10月はピエール・ロティを主題にしたレクチャーミュージカルでダンサーを務めるのだけど、日本人や日本文化に対してのピエール・ロティの記述には文化への誤解や白人至上主義のような匂いを感じて、日本人女性であることは一目でわかるような私が、その中でどう振る舞えばいいのかかなり悩んだ。 でもピエール・ロティ美術館に行って彼の絵を見(デッサン等が息を呑むほど素晴らしかった)、家の中をどんな風に飾り、どんな装いをしていたかを知ったら彼への印象ががらっと変わって、そんなことは考えなくなった。
彼の家は世界中に旅して集めたものが飾られ、どこの国ともいつの時代とも分からないような魔法のような呪術のような楽園のような場所になっているのだけど、彼はそれら自分が愛でたものを人に見せたり動かされたりするのを好まなかったらしい。(大事なものなんだから当然だと思う)
後世、彼の家でパフォーマンスをしようとした友人は、何度も試みても何故かトラブルが続いてきっとピエール・ロティがやめてくれと言ってるんだと思う、と考えて、とりやめにしたのだって。ピエール・ロティの絵は本当に素晴らしくて、デッサンには彼の偏執的なまでの好奇心やこだわり、熱量、情熱が感じられる。
誰かの作るものを見る時に、やはり文章だけでは分からないことってある。文章はその人の本質から距離をとることが時には可能だから。(だからこそ肉に迫った文章を素晴らしいとも思う)
でも、体が関わった絵や彫刻やダンスや音、声、みたいなものは誤魔化しがききにくい。
ピエール・ロティの絵を見られてよかった。
あー、もしかしたら私が長く体のことに関わってるからそう思うだけで、言葉を専門としている人は別の意見があるだろうとも思う。
私も勿論、ことばもからだと同じように、生まれた時からその人だけが積み上げていけるものだとも思う。そういうレベルでことばを使い続けることが案外難しい、というふうに思うだけ。
体は案外単純で、いつまでもその人を表してしまうけど、言葉は本人から離れることも容易だよな、と思う。